水急不流月

信じる道を突き進め

2種類の天才とその過程にある努力

最近ふと思ったことがある。

天才と言われる人間や成功者と言われる人間は、誰しも同じ上に成り立っているのではないだろうかと。

 

 

2種類の天才

私は、そもそも天才には2種類の人がいると思っていた。

 

・優れた才能+少しの努力=天才

もともと持ち合わせている能力が人並み以上に優れている人に僅かな努力が相まって天才と呼ばれる人間。

 

・人並みの才能+物凄い努力=天才

もともと能力があったわけではないが、大いなる努力の積み重ねの結果として天才と呼ばれる人間。

 

前者は、先天的な才能を自ら活かした結果として天才と言われるようになったもの。

後者は後天的な能力を自ら研ぎ澄ました結果がそうなったもの。

天才の共通点

先ほどの説明では両者は一見全然違うようにみえるかもしれない。

けれど大事な部分に着目すれば、共通点があることに気付く。

それは、努力だ。

どれほどに生まれ持った才能が秀でていても、何の努力もしなければ凡人と変わりないのだ。

 

何一つ努力をせずに天才だと言われている人はいないだろう。

もしいたとしても、その人は努力を努力として認識していないだけなのだ。

例えば

「好きなことをずっと楽しみながら続けた結果、地位や名声を得た人」

こういった人たちは、自らの努力を努力として認識しない傾向にあるだろう。

何故なら、結果までの道のりに苦労を感じていないから。

しかし、努力は必ずしも苦労を伴うものではない。

その過程をどのように感じるのかは個人差があり、客観視した時には多大なる苦労と思えるかもしれない。

他人が辛く厳しいと感じる道のりすらも、楽しさや喜びを見出し乗り越えた、ただそれだけ。

「苦」 と感じるのか「楽(楽しい)」と感じるのかは人それぞれであるが、そこには必ず努力が存在する。

 

努力の違いとありかた

ここで、成功することだけを目的としてただひたすらに努力している人を考えてみてほしい。

客観的には、努力家だとか、絶え間ない努力とかに感じられるだろう。

しかし、本人は少なからず「苦」を感じているはずである。

この場合の努力は長期的に継続することが困難である場合が多い。

どれほど努力していても結果が出なかったり、成功が程遠い場合に挫折してしまう。

 

逆に、成功だけを目的とせずに他が「苦」を感じて努力している部分に「楽」や「喜」を見出している人は、努力を長期的に継続することが容易である。

しかし、この場合は必ずしも成功に向かっていると言えない場合がある。

単純に、何の目標も見据えずに「楽」な部分のみを継続してしまう場合がそうだ。

そうなってしまえば、「今(現状)」という場所から前に進むことは困難になり、成功への道は閉ざされる。

 

つまり、成功や目標を見定めつつ「その過程(努力)」に「楽」や「喜」を見出せるかどうかが重要なのだ。

目標無く「今」楽しめているものがあるなら、目標を定め前進すること。

目標があっても「今」を楽しめていないなら、「今」に楽しさや喜びを見出すこと。

そうすることで、成功への道が開けるのではないかと思う。

「楽」を感じられる「努力」で「成功」を目指そう

努力の結果は自分だけが判断するものでなく他者が認めるものである。

自分が納得していても、他が認めるものでなければ称賛されることもない。

つまり、周囲の人間や大衆から認められるほどの存在に成長した時に成功したと言えよう。

多くの人はきっと、「ある地点に到達するまでの、前進した過程」のことを努力と認める。

それまでの道のりを「楽」にするか「苦」にするかは自分次第であり、結果に「成功」が結びついている「努力をすべきなのだろう。

 

追記

「成功」や「結果」を求めていない努力も間違ってはいない。

努力する行動や思考そのものに価値があり、たとえ「結果」や「成功」に結びつかなくとも、必ず自分の糧になる。

誰かの目に触れることもなく、自分の中での僅かな成長だったとしても、それにより自身のスキルアップやモチベーションの向上に繋がっていればいいのである。

 

「結果」を求めるがあまりに、他と比較することでしか存在価値を見出せなくなれば、成長の妨げになるばかりか劣等感を抱いてしまうというようなマイナス面が大きくなってしまう。

かといって、自己の満足するレベルが低ければ「技術の向上」や「成功」には繋がらない。

思考の偏りや一部の欠落は自己の成長速度に大きく関与しているといえる。

 

何事にも目標を持ち邁進したいものである。

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