水急不流月

信じる道を突き進め

釣りを漁と思うなかれ!最高の結果よりも最良の結果を求める方が次に繋がる話

お盆休みも終わりましたが、まだまだ暑い日々が続いています。

休みの間に釣りに出掛けたという方も多いのではないでしょうか。

私もそんな一人です。

 

結果は、アジ爆釣。

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この時期では、サイズは望めないと言われたりもしますが、居るところには居ます。

小さい個体が多いのは確かかも知れませんが、結果にこだわらずに釣行を続けていれば、どこかで必ず良い釣果に恵まれるはずです。

 

お盆休みの期間中ということもあり釣り場が空いているか少し心配でしたが、想像していたよりも遥かに釣り人は少なく、どこでもすんなりポイント入りすることが出来ました。

 

私はアジを狙う場合は、主に佐伯市の鶴見方面へ釣行することが多いです。

米水津や蒲江でも良い釣果を聞くことはあるのですが、自分の地元でもあり実績のある鶴見へつい行ってしまいます。

いつか米水津や蒲江でもアジングをやってみたいとは思っています。

釣行した際にはこのブログにて釣果をアップしますので、気になる方は時々見に来て下さい。

 

それではスタート。

今日のテーマは釣りに関しての考え方について。

 

冬場ならばアジンガーで賑わうポイントも、夏になると寂しい雰囲気を漂わせている。

釣れないから人が居ないのだろう、そんなふうに感じてしまう。

実際、一晩中ロッドを振り続けて冴えない釣果に見舞われたことは多々ある。

しかし、ロッドを振らなければ何のチャンスも無い。

「この時期に釣果は望めないから」と、釣行しないという選択をしてしまうのは可能性を自らの手で0%にしてしまっているのと同じである。

 

これは、どのようなことにも言える。

 

たとえば、仕事。

自分のキャパを超えた仕事が舞い込んできたときに、努力もせずに現状の力量からNGの判断をしてしまうこと。

もちろん到底無理そうならば致し方ない判断ではあるが、現状維持のための判断ならばとても残念に思う。

努力することでその仕事を完遂できる可能性があるのならば、受けるべきだろう。

そうして努力を重ねることで、自分の力量をあげることはもちろん、次の仕事へ繋がったりとメリットは大きい。

それをわざわざ自らの手でフイにしてしまうのは勿体ない事なのだ。

 

たとえ0%に近い確率であったとしても、挑戦しなければ得られるものは何もない。

スタートに立つことがなければ、目指すゴールは見えないのだ。

僅かな可能性、それが限りなく0%に近い確率でも挑戦することで得られるものは必ずある。

 

さらにいえば、自ら高望みをしてしまい挑戦しないようなこともあるだろう。

釣りで言えば、最良の結果を望むが故に釣行しないという選択。

今までの経験から、良型が釣れた時や数が豊富に釣れた時を想定して、それを100%の結果とする。

その結果にたどり着く可能性が0%に近いからと釣行を断念してしまう。

これが高望みの結末だ。

スポーツをしている人なんかはこの思考は少ないだろう。

 

スポーツでの目指す目標がどこにあるかは人それぞれ。

しかし、始めたばかりのスポーツでいきなり国体やオリンピックを目標にするひとはいない。

いきなり100%のゴールを目指したりはしないのだ。

地方の大会や選手権、資格大会など、力量に応じたゴールを目標にするはず。

それは、努力を重ね、自己の持てる力を高め、その時にできる最良のパフォーマンスを出し切るだけ。

 

釣りに関してこの思考を持っている人は少ない。

だから、釣行しないという選択をしてしまうのだろう。

スポーツと同じような思考をもてば、いつでも釣行できるようになる。

「釣行するタイミングでの最良の結果」を100%の目標にしてしまえばいいのだ。

仮に、釣行時の潮が良くないとしよう。

さらに、釣行できるタイミングでは潮止まりで、そのうえ雨天。

こうなれば釣行を断念するひとが多いのではないだろうか。

そんな時に、「ゼンゴ3匹」を目標にしてみよう。

どうだろうか?

達成できそうなゴールではないだろうか。

自分の中での最高の釣果(尺クラスを数十匹といった釣果)を100%の結果とした場合は、上述した条件では、限りなく0%に近い目標だろう。

しかし、その時の最良の結果(ゼンゴ3匹)を100%の結果とすれば、その可能性は達成できそうなどころか、200%や300%の結果すら残せそうではないだろうか。

このように、そのタイミングでの自分の最大のパフォーマンスで得られそうな結果を目標とすれば、釣行しないなんて選択肢は無くなるはずだ。

 

ただ、そうして定めた目標すら達成できないこともあるだろう。

そんな時にも、目標を変えたことが活きてくる。

その達成できなかった目標に対し、なぜ達成できなかったのかと自己分析をするようになるから。

そうすることで、次に繋がるようになる。

道具を変えてみたり、狙い方を変えてみたり、アクションを変えてみたりと、別のアプローチを考えるようになる。

このように、自分の技術や知識、経験を積み重ねて行く事こそ本来の趣味としての楽しみ方ではないだろうかと私は思う。

 

もし、目標が自己の最高の結果であった場合には、自然条件や時期など条件のせいにしてしまいがちで、自分を高める結果には繋がりにくい。

何かのせいにするのは容易だが、自分自身が結果を受け止め、それを自己の中で改善していくように努めなければ、次に繋がることは無い。

 

早い話、釣りを趣味として楽しもうとするならば、結果ありきではない、ということ。

結果のみを求めるのなら、それは漁である。

結果を求めることは悪くないが、それに縛られてしまうのは良くない。

たとえば、メディアに取り上げられるアングラーの多くは、取材の際に結果を残さなければならないだろう。

そして、きっちりと結果を残している姿を多く見かける。

しかし、その方々は決して結果だけに囚われているワケではないはずだ。

苦い経験や、苦労の末、結果を残せるアングラーとして成り立っている。

それは、目標に対し結果が良くも悪くも自己分析と改善の検討を幾度となく繰り返しているからだ。

 

自然を相手にしているとはいえ、釣りもまた自分自身と向き合わなければ向上できない高度な遊びなのである。

 

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