無思考な人間は、いつまでも無能な窓際族
これまでに、私たち人間は「人」が想像し得る全てのモノを「カタチ」にしてきた。
それは過去の偉人たちによって成し遂げられてきた。
鉄の塊は空を飛び、自分から遥か離れた場所の映像をリアルタイムで見られ、得たい情報を手元で瞬時に探すことが出来る。
誰が想像しただろうか。
これからは、もっと著しいスピードで発展を遂げて行く事だろう。
今この便利な世の中は全て、想像力を根源とした努力の上に創られている。
しかし、その一方で失われつつあるモノもある。
それは私たち人間が「人」であるために欠かすことの出来ないもの。
いや、欠かしてはならないもの。
それが昨今、ネットという一つの膨大な情報網により、無に近い状態になっていると感じる。否、ネットの使用法を間違えている私たちが無に近づこうとしているという方が正しいかもしれない。
私たちは、得たい情報をいつでも得られるようになった。
これは至極当たり前のことように感じるだろう。
動物の飼い方だったり、体調の良くない時の対処法だったり、ゲームの攻略法だったり。
どんなことでも直ぐに解決できてしまう。
しかし、それに頼りがちになることで、私たちに本来備わっているべきであろう想像力はおろか、経験に基づく根拠や知識にはならない。
ネットから得る情報により、自己の有意義な思想の時間や体験を失ってしまっているのである。
たとえば、子どもがゲームで進めなくなった時、すぐに攻略法を調べて先へ進む。
たとえば、カブトムシの飼育に最適な環境を知るために、調べて同じことをする。
たとえば、、、
と言い出したらキリがない。
自身で思考することを止めた時、想像力や知識は培われない。
人は常に「どうすべきなのか」という判断に迫られている。
その時に必要なのは、今までにどれほどの思考や思想を繰り返し、それに対し、何度実行と検証を繰り返してきたのかという事実だ。
その根拠なく、ネットの情報を頼りに生きてきた人は、常に誰かの情報を頼りにし、同じことしかできない。
そんな思考では、鉄の塊は空へ浮かべられないのだ。
仕事や病気等で早急な対応をしなければならない時には、非常に利便性に富んだネットの情報。
しかし、それは私たちの思考能力や想像力を減衰させるために普及したのではない。
どう生きるべきか、という問いに即座に答えを見出せる人など居ないだろう。
しかし、問いかけられたのなら、私たちは思考する。想像する。そして自分自身を見つめ錯綜した心象から答えを見つける努力をするだろう。
しかしネットに頼りすぎている人は、思想することもなく、誰かの「こう生きるべき」を探してしまうだろう。
考える葦
聞いたことのある人もいるだろう。
「人間は考える葦である」
この言葉の真意は「考える」という部分にある。
自然界の中では葦はほんのちっぽけな一つの植物に過ぎない。
地球が誕生してから今日までの歴史上では、私たち「人」という存在もちっぽけなモノに過ぎないかもしれない。
しかし、「人」は自身で思考を巡らしそれを決定する能力を生まれながらに持っているのだ。
一つの問いに対し、どれほどの思考を巡らすことが出来るのか。
それこそが、私たちが「人」であるために必要なものではないだろうか。
私たち人間がそれぞれ個性をもつために、思考や想像することを止めてしまってはならないはずだ。
個々の人間「らしさ」というものは、「考える」ことで生み出されるものだと断言する。
また「考える」ことを止め、決まりきった行動や思考しかもてないのであれば「人」である必要は無く、「機械」で事足りる。
私たちそれぞれが、「人」であるために「考えること」は切っても切れないものなのだ。
考えることは(最適な選択)のため
この「考える」ということは、どのような分野においても必要不可欠なものである。
例えば仕事。
上司から何かしらのミッション(業務)を与えられたとしよう。
それのミッションは、単純な計算業務であっても、数千万円を動かすようなプロジェクトでも、何でも構わない。
もちろん、会社独自のプロセスや方針があるが、詳細までもの全てを手順として確立しているようなことは無い。
そこで「考える」ということが重要になってくる。
単純な計算業務であったとしても、それを電卓で処理するのと表計算ソフトで処理するのでは、正確性や処理速度に違いが出てくる。
大きなプロジェクトだとしても、その完遂に至るまでのプロセスが「考える」ことで大きく変わる。
それはつまり、私たちに「考える」ことを委ねられているのだ。
ここで「考える」ことをせずに最適な選択が出来ない場合、無能な窓際族というレッテルを貼られることとなるのだ。
例えば日常生活。
朝起床して、歯を磨き顔を洗い着替えをし、スーツを着て出社。
帰宅して、風呂に入り、晩酌後に就寝。
毎日同じルーティンを繰り返している人も多いはずだ。
しかし、その中でも「考えている」ことは多い。
歯磨きの時には、歯ブラシの傷み具合や歯磨き粉の減り具合は見ておかなければならないし、着替えるときにはスーツのシワやホコリのチェックもするだろう。
ネクタイの色や柄にも気を遣う必要がある。
晩酌のビールやチューハイの在庫は理解しておく必要があるし、無ければ購入するために買い物をしてから帰宅しなければならない。
買うなら、コンビニ?スーパー?ドラッグストア?
こういった選択の場面で意識的に、資金や時間といった制約の中で最適な選択をしているはずだ。
趣味における「考える」
私の趣味は釣りだ。
この、釣りにおいても「考える」ことはとても重要である。
それに気付けずにセオリー(基本)ばかりを繰り返す「考えないアングラー(釣り人)」が嫌いだ。
釣りといっても数多くの分類がある。
フレッシュウォーター(淡水)なのかソルトウォーター(海水)なのか。
ルアー(疑似餌)なのか餌なのか。
ただ、どの分野においても基本とされる釣法みたいなものはある。
ただ、それだけを繰り返すことが正解ではない。
刻一刻と変化してゆく自然条件のなかで最適な選択に近づくために「考える」ことをしなければ満足な釣果は得られない。
仮に、「無思考アングラー」がセオリーばかりを繰り返して満足できる釣果を得られたとしても、「思考を巡らすアングラー」ならば、更に上をいく釣果を出せる。
何事も成長のために「考える」のだ。
それなのに「無思考アングラー」は他人の情報ばかりを鵜呑みにし、同じことをしようとする。
だから「どこで釣った?」や「ルアー(疑似餌)の種類やカラーは何?」などと聞かれると嫌気がさす。
全く同じ条件は二度と訪れることが無いというのに、ただ「それだけ」を得ようとする無意味さ。
本来聞くのならもっと詰めた部分まで必要なはず。
その時の状況、潮の流れや波の具合、風や雨といった自然条件、なぜそのルアーやそのカラーをチョイス(選択)するに至ったかの経緯等々、そういったプロセスまでを知り得ずに、正解だった「選択のみ(ルアーだけを聞いたり、場所だけを聞くといったもの)」を知ったところで何の価値も無い。
だから私は、「無思考アングラー」には、「選択のみ」しか答えない。
教えることで私が不利益になることは何一つないから。
しかし、「思考を巡らすアングラー」にたいしては、状況を事細かに説明し「思考」を理解してもらえるよう話をする。個々の「思考」が違うように、別角度からの意見等も聞けるのが更に成長へと繋がるからだ。
このように、同じように深い部分まで「考える」アングラーとの話は尽きない。
つい先日も、友人との何気ない電話越しでの会話が途中から釣り談義となりヒートアップ。
一時間以上も電話越しに有意義な時間を過ごした。
考えることで成長へ
考えることは、大変であり難しい。
考えないことは楽であり簡単である。
だからこそ、「考える」ことが成功や成長へと繋がる。
なぜダメだったのか。
どうしてできないのか。
失敗から「考える」こと。
成功を得るために試行錯誤しながら思考を巡らすことが成功への道。
もっと良い方法があったのではないか。
成功から「考える」こと。
更なる飛躍をとげるために試行錯誤し思考を巡らすことが成長への道。
私たちが「人」であるために、私たちそれぞれが「思考」しなければならない。
過去の偉人達の思考と試行が今の時代をつくっているのだから。